柔術・古武術・秘伝の探求

八光流柔術の稽古会「やわらいしゃ」のブログです

八光流柔術・首絞捕の稽古を再考する

〜前十字締めの精度を踏まえた段階的な稽古方法〜


八光流柔術の初段技「首絞捕」は、稽古が極めて難しい技の一つです。

なぜなら、この技の前提となる立位での前十字締めを、精度高くかけられる師範が非常に少ないからです。

f:id:Yawaraisha:20260719183014j:image

初代宗家の時代には、他武道で鍛えられた猛者が多数入門されていました。しかし現代では、他武道を本格的に修めた師範資格者の割合は減少傾向にあるように感じます。短期速習や「技のコツ」といった謳い文句が先行する一方で、武道の本質に真摯に向き合う層が相対的に遠ざけられているのかもしれません。その結果、型の想定が徐々に甘くなっている印象を受けます。

特に首絞捕は、相手が本気で手を使って押し返しても解けない、逃れられない状態から仕掛けてこそ意味のある技です。しかしSNS上で見かける指導動画の中には、(ただ腕を交差させながら相手の両襟を掴むのみで、下記のイラストの様に腕が伸ばして)前十字締めが不十分なまま「技のコツ」を熱心に解説されているケースが少なくありません。

f:id:Yawaraisha:20260719182927j:image

不完全な想定で語られる「技のコツ」とは何を目的としているのでしょうか?一体、何に役立つのか——正直なところ、疑問を感じざるを得ません。

「首絞捕」は、合気道の肘決め投げに近い形で、相手の腕を伸ばしながら外側から押さえつつ投げ落とすように型を終えます。私はこの部分の技術を個人的に「攻落(せめおとし)」と名付け、道場では敢えて受(掛け側)の攻め口を片襟取りに変更して稽古しています。

本来の攻め口を捨てるのは一見遠回りに見えますが、「首絞捕」の中に含まれる本質的な「攻落」の技術だけを抽出して深く練るためです。(上のイラストの様な)不十分な前十字締めに対して「攻落」を無理に仕掛けようとしても、本来の技の良さは発揮されません。相手が両襟を交差して掴んでいるものの、腕を十分に引き絞っていない状態では、「攻落」よりも脇への当身を入れたり、上腕部を下から押し上げて後方に崩すなど、代替手段が多数存在します。

敢えて「攻落」を仕掛ける必然性が出来上がっていない状態で工夫を重ねるのは、マイナスをマイナスで打ち消すような空虚な努力に感じられます。それならば、前十字締めの精度が上がるまでは攻め口を片襟取りに変更し、後半の「攻落」の技術を確実に身につけた方が、よほど建設的ではないでしょうか。

f:id:Yawaraisha:20260719183916j:image

加えて、「首絞捕」の受けは非常に難しいものです。型を馴れ合いでなく本気で稽古しようとすれば、受け側は投げ落とされる直前まで思い切り締め上げる必要があります。自分の受身を優先して早めに絞めを解いてしまうと、稽古の精度が大幅に落ちてしまいます。熟練した指導者が受けを務める場合は別ですが、初心者・中級者同士、あるいは型の本質を十分理解していない師範資格者が指導する場合には、精度が上がりにくいのが現実です。

f:id:Yawaraisha:20260719183958j:image

「首絞捕」は初段技に分類されていますが、求められる技術レベルは決して低くありません。最初から100%の完成度を目指すとかえって「悪しき工夫」に陥る危険性があります。まずは基礎となる締めの精度を高め、段階的に深めていく姿勢が重要だと考えます。

八光流柔術・四段技稽古 「基本は同じ」

先日の稽古会(2026年5月23日)では、四段技の一部として手首の陰の経絡を攻める技を中心に取り組みました。この技は極まると非常に強い痛みがあり、受け手は手首を握り潰されるような感覚を覚えます。しかし実際にはほとんど力を使わず、身体の操作だけで極めるのが特徴です。

f:id:Yawaraisha:20260531185742j:image

多くの人がやりがちな誤りは、無理に相手を持ち上げたり、手首を自分の身体に引き寄せて捻じ上げようとして姿勢を崩してしまうことです。これでは技の威力は半減し、相手に反撃の隙を与えてしまいます。

技の要諦は、初段技と同じです。それは相手の中心を捉えること、すなわち正しい身体の向きにあります。具体的には「相手の胸と自分の胸を合わせるような適切な角度」で向き合うことが重要です。この「向き」は基本中の基本でありながら、10年、20年と稽古を重ねたベテランでもできていない人が少なくありません。

私は自分が学んでいる古流剣術を通じて、身体の向きの重要性を改めて強く再認識しました。剣術の型の中で指導される刃の向き、軌道、そして相手に対する身体の角度について事細かく学んだことが、柔術の技の理解を深める上で非常に役立っています。重心のコントロールや相手との間合いの感覚も、柔術に直結する部分が多くあります。

八光流を学んでいる方は、古流剣術や杖道などを並行して学ぶと得るところが大きいと感じます。私が武器術に興味を持ったきっかけも、神道夢想流杖術の体験稽古でした。

初代技も四段技も、根底にある原理は一つ。相手の中心を崩さず、己の中心を保つこと。この普遍的な原則を、日々の稽古で深め続けていきたいと思います。

 

護身体操についての謬説

この体操は皇法医学の理論に基づき、経絡を刺激するために作られたものである。本部講習復活を主導したKさんは「筋肉ではなく経絡を鍛錬するために、平田式体操から初代奥山龍峰宗家が改編した」と説明されていた。彼は宗家先生の許可を得て護身体操の本部講習を復活させた人物で、多くの師範が彼から護身体操を学んだ。

護身体操の型は手足の屈指運動により経絡に刺激を入れる。肺経・心経に関する運動のみは自分自身で身体を抑えて力の拮抗状態を作るが、その他の型は(厳密に言えば床の抵抗反発も利用するが)身体の屈伸のみで経絡にアプローチする。因みに心包経は腕を限界まで曲げた状態を「楔」として胸を開く様に経絡を刺激する。

しかし彼から学んだ中で一部の者たちは、腕や肩を抑えさせて外からの抵抗を跳ね除ける力を養成する鍛錬であるかのように運用している。腕を挙げる型であれば、腕を挙げて身体を伸ばし切る動作により身体を整えるのが運動の目的であるが、身体を伸ばし切る途上で負荷をかければ、どうなるだろうか?

f:id:Yawaraisha:20260502185657j:image

決められた構えを取った状態から経絡に刺激を加えるのが本来の形であるにも関わらず、構えを取る前の状態で負荷を加えるのには何か根拠があるのだろうか?或いは、外部から負荷をかけて「力感」を楽しみたいのだろうか?だとするならば、筋トレをしている様にしか見えない。外部から加わる負荷に対抗する様な形は本来の護身体操とは大きく異なる。当然、得られる効用も変わってくる。

Kさんが護身体操の講習を担当していた当時、この運用方法を好んでやっている師範がいた。講習会の会場で型の練習をしていると何の遠慮もなく腕を押さえつけてくるので、少し鬱陶しい気もした。この方は「護身体操の事は全て理解した」とKさんに語っていたらしい。自信を持つのは良い事ではあるものの客観的視点と洞察力は不可欠だろう。

慎重さ、謙虚さを持たない者が伝承に携わればカタは容易に歪んでいく。謬説は一度流布されれば簡単には止まらない。質の優劣に関わらず、師匠には師匠と言う権威がある。袴を穿いて師範帯を着けていれば嘘も誠に聞こえる事もあるだろう。一方で玉石混交の中に珠玉を見つけるのも稽古の味わいかも知れないし、そう言う視点に立てば全て師が良師になるのだろうか?

 

剣の視点から見つめ直す八光流柔術の理

 

古流剣術に入門して、もう少しで4年が経ちます。

剣術の稽古が進むにつれ、八光流柔術の技を剣術の視点で再検証する機会が増え、新たな気づきが次々と生まれています。今学んでいる剣術流儀は体術の動きを非常に重視しており、先生も折に触れて体術を交えた技の解釈をしてくださいます。八光流柔術との親和性が高い流儀だと感じていますが、自分でも「よくぞ此処に辿り着いたな」と、静かな感慨に浸ることはしばしばです。

 

f:id:Yawaraisha:20260331214007j:image

 

 

亡くなった新横浜の先生(初代宗家に直接教えを受けた八光流柔術皆伝師範)がよく仰っていた「胸と胸を合わせる」「力は自分に戻さず相手に還す」という教えは、自分なりに理解したつもりでいました。しかし、剣術の多様な太刀筋と足捌き、体捌きの組み合わせを通じて、柔術の稽古だけではどうしても曖昧になりがちだった身体の使い方を、改めて精緻に学び直すことができています。

私が学んでいる剣術は、戦国時代の甲冑剣術の技法を色濃く伝える流儀です。刀で相手の小手や腕を抑えて動きを封じ、刀を構えたまま体当たりをしたり、相手のバランスを崩して動きを止めてから悠々と必殺の一撃を見舞う――そうした近い間合いで身体をぶつけ合う戦い方が多く見られます。だからこそ、刀を振るう一瞬の間合いや角度、身体の開き方が極めてシビアです。わずかなズレが技の成否を大きく左右します。

その厳しい矯正を繰り返す中で、八光流の「力の還し方」や「胸の合わせ方」が、単なる接触ではなく、相手の動きを自然に吸収し、流すための精密な身体操作であることに深く気づかされました。

もちろん、剣術では手首を巧みに極めるような細かな関節技は少ないのですが、身体全体を使って相手を崩す感覚や、「スッと」相手の間合いに入り込む動きを繰り返し学べる点は、八光流柔術と非常に相互補完しやすい技術体系だと感じています。

また、剣を振る動作は肩や肘を中心に筋肉のテンションが生まれやすいのですが、そこを意識的に力を抜いて振る稽古を重ねることで、柔術における無駄な力みの抜き方にも良いヒントを得ています。

表面的には「武器の有無」という大きな違いがありますが、両者の根底にある日本武術の身体原理――自然な姿勢、効率的な力の伝達、相手との調和――は驚くほど重なり合っています。今、剣術を学ぶことで八光流がより深く理解でき、逆に八光流で培った蓄積が剣術の習得を加速させてくれている。この相互補完の関係は、まるで長年離れていた二つのピースがようやく嵌まったような、静かな心地よさがあります。

これからも、この「剣と柔の往還」を大切にしながら、稽古を続けていきたいと思います。

先ずは前を向け!

八光流柔術の初段技に「腕押捕」(片腕押捕)という技があります。
相手が上腕部を強く掴み、バランスを崩しながら殴り掛かってくる状況を取り押さえるためのものです。

型では最初に、相手の顔面(眼や鼻先)へ指を鞭のようにしならせて当身を入れます。しかし、最近の稽古を見ていると、「当身を素早く入れること」だけに囚われてしまっている人が少なくないように感じます。それがとても危惧される点です。

f:id:Yawaraisha:20260222114853j:image

また、「手の内」という概念を持ち出して、相手の掴み手を捕えに行く手の感覚ばかりを強調する指導者もいます。しかし、そうした感覚にこだわるあまり、肝心の「殴り掛かってくる相手の存在」がすっぽり抜け落ちてしまっているケースが目立ちます。

型が想定している相手は極めて厳しいものです。こちらの腕を掴んで体勢を崩しながら、同時に顔面を殴り掛かってくる——そんな現実的な攻撃に対して、小手先の動きや視線を手元に落とした状態で対応しても、到底太刀打ちできません。横を向いたまま当身を出したり、手元ばかり見つめていては、相手の圧倒的な突進を止めるどころか、自分が押し込まれて崩されるだけです。

本当に優先すべきは、「当身の速さ」やそうした手の感覚ではありません。
まず相手と正対し、自分の姿勢を整え、バランスを確実に保持することです。

実はこの「押し込まれてもバランスを奪われない工夫」は、四段技で明示的に解説されている型がありますが、初段の「片腕押捕」の中にも既にその技術がしっかりと伝えられています。こうした細部の技術が見逃されたり無視されたりするのは、受け側(八光流では掛)の攻め口に対する理解がまだ浅いからに他なりません。

武術の動きは論理的で包括的で単純であるべきだと思います。身体の一部分の動きのみにフォーカスを当てると護身術としての実用性を損なう場合もあります。主観的な説明も問題を複雑化させるだけです。また技のコツ等と称して曖昧で観念的な説明をされると、一時的に理解した様に思えても真実に辿り着くのが難しくなるのではないでしょうか?

幸い八光流には、初代宗家が遺された教本があります。如何なる稽古場であろうとも、初代宗家を師として正しく探究を続けることが可能です。実際に読み込んでいくと難解な部分もありますが、そう言う時は師範を称する方々に率直に質問するのも良いでしょう。彼らから納得のいく回答が得られないかも知れませんが、洞察のプロセスは必ず修行者自身の上達を促す筈です。

 

型稽古の本質は相互協力による学習プロセス

私は八光流柔術の他に、ある古流剣術も稽古しています。ここ数年は剣術の稽古量の方が八光流よりも圧倒的に多くなっています。
基本的に水曜日と金曜日に剣術の稽古があり、仕事の都合で参加できない日もありますが、平均して週1〜2回は通っています。

先週の水曜日は基本の型5本の上位互換版を稽古し、金曜日は会長のもとで打太刀を学びましたが、打太刀の難しさを改めて実感しました。
会長の打太刀と私の打太刀では、使太刀の動きがまるで違います。
打太刀が下手だと、使太刀は正しい技術を身につけられません。だから目録以上の先輩方も打太刀には苦心されている様子です。打太刀に対する先生の指導が怖いとおっしゃる方もいらっしゃいます。

私が学んでいる流儀では「打太刀が使太刀を導いて稽古をする」と指導されていますが、これは特別なことではなく、武道として普遍的な真理だと思います。

ところが先日、八光流柔術の某指導者のブログで「合気道(の稽古)は受け側の協力が必要な場合があるが八光流は不要」とする主張を含んだ合気道との比較記事を見つけました。

f:id:Yawaraisha:20260201170159j:image
『あれっ?』と違和感を感じる人はいませんか?そもそも武術における型稽古はお互いの協力で成立するものです。
もしかしたら、某師範(正確には皆伝師範でしょうか?)にはもっと深い意図があるのかもしれませんが、普通に読み進めると……???
何というか、型稽古に対する知見が欠如しているのではないかと思えてしまいます。
古流武術では型稽古において技を受ける側は原則的に指導者のポジションですが、八光流柔術ではこうした考え方があまり浸透していないのかもしれません。

私が学んだ八光流の道場では、稽古の課題ごとに掴み方や攻撃の仕方を細かく決めてから始める場合も多かったです。それは学びを得やすくするための工夫です。
技を「学ぶ段階」と「使う段階」では前提が異なるはずですが、そうした区分が曖昧になると、型稽古の意義が損なわれかねないと感じます。

剣術稽古メモの趣旨から少々ずれてしまいましたが、技を受ける側の役割の大きさは剣術でも柔術でも変わらないと思います。
更に言えば、八光流であっても合気道であっても、その他多くの武道でも、稽古ではお互いに技術を高め合う協力関係が必要なのです。

剣術の稽古会には合気会を中心に合気道の高段者・指導者層も多くいらっしゃいますので、あの記事を見たら気分を悪くされる方もいるかもしれません。
でも、笑って(呆れて)許してくれる可能性もあるでしょうか……。

ここで敢えて合気道八光流の違いについて触れると、合気道(特に最大会派の合気会)の方が稽古量が圧倒的に多いと感じます。
合気会では稽古時間や出席回数が昇級・昇段の条件に入っているそうです。一方、八光流でそのような縛りを設けている道場はあまり聞いたことがありません。
道場によって運営方法に違いはあると思いますが、八光流は短期速習を謳っているところが多いので、出席回数を昇段の条件にしづらい事情があるのかもしれません。

とにかく、どの流派であれ、稽古を積み重ねて自己を高めていくことこそが一番大事だと思います。

護身ではなく誤身?体操

最近、SNS上で護身体操の稽古風景を目にする機会が増えました。護身体操は、八光流柔術初代宗家・奥山龍峰先生が、指圧療法の師匠である平田内蔵吉師から学んだ鍛錬法に独自のアレンジを加えたものです。龍峰先生自身は八光流本伝の普及に注力されており、護身体操についてはあまり積極的ではなかったため、失伝の危機に瀕していたようです。

f:id:Yawaraisha:20260131230248j:image

その護身体操が今、再び広がりつつあるのは一見喜ばしいことのように思えます。しかし、SNSで見かける某道場での護身体操は、私が学んだものと細部の重要な部分や、腹圧に対する基本的考え方が大きく異なるように感じます。

護身体操は、初代宗家・奥山龍峰先生の思想を基に、平田内蔵吉氏の鍛錬法を改良した独自の体系です。これを宗家先生の意見を聞きながら復活・体系化した皆伝師範(20年近い研究と検証を経て本部講習を再開させた方)がおられました。その師範は、ご自身が信任を置いていない人物が「俺なら護身体操を教えられる」と豪語していたことを深く嘆かれていました。私もその「豪語した人物」を知っていますが、体幹部の力感を過度に重視するような独自解釈を持っている印象でした。護身体操の復習講習会で講師の進行を無視して独自の指導をされた事もあるので、少々思い上がっていた部分もあったと思います。

現在、SNSや稽古案内で見かける護身体操の多くは、おそらくその「豪語した人物」系統の発信によるものと思われます。確かに、その系統の護身体操に魅力を感じ、入門する人もいるでしょう。それ自体は否定しません。ただ、護身体操のような流派の重要な別伝技法を伝える以上、誰から・どのような経緯で学んだのか、その伝承のルーツを明確に語るべきだと考えます。

正統な伝承を知る者から見れば、細部の違い(例: 腹圧の過剰意識による姿勢の歪み、平田式との混同など)は明らかです。本当の護身体操はもっと魅力的なのに…という想いもあれば、これらが広がると八光流の技術体系全体の理解が歪み、門人の安全や効果にも影響を及ぼす懸念も感じます。流派の継承を真剣に考えるなら、言葉だけでなく、事実に基づいた透明性が不可欠です。

私などは覚えが良い方ではないので、講習以外の時でも教伝責任者である皆伝師範に疑問点や自分の解釈を伝え、課題を克服するよう努めていました。今も自分の中で納得できる形に落とし込めていないので、護身体操の教伝は極めて限定的にしています。

今、護身体操の普及に努めている方が「豪語していた人物」の教えをそのまま受け入れているとしたら、今後の伝承に大きな懸念が残ります。とは言え、伝承の正解性は武道全般における大きな課題でもあります。

道場では「先生、それはどう言う事ですか?」「なぜですか?」「本当に本当ですか?」「先生の技、効いていませんが…」と率直な質問・意見が言える雰囲気が重要だと思います。教える側も学ぶ側も、互いに気をつけていくしかありません。

(参考:私の稽古経験および関連する過去の講習記録に基づく私見