柔居舎を始めて以来、数多くの稽古方法を試して来ましたが、それは一方で数多くの稽古方法を捨て去った事になります。では捨て去った稽古方法が無駄であったか?と言えば、そうではありません。その時々の稽古体験が次へのステップになっています。
稽古の取り組み方によって全然違うレベルの稽古体験を味わえた事、それらを身体的な経験として蓄積出来た事に意義があったのでしょう。過去の稽古方法を再現しても上手く行かない事もありますが、過去の成功例を標準化する事に、どれほどの意義があるのか?
型は、実用性や学習効果の高い状況設定と先人達の口伝によって学びの手助けをしてくれますが、完璧に標準化されている訳ではありません。むしろ、形式化が出来ない揺らぎの部分に探求の余地が残されている様に感じます。初期段階では上達への捷径を形式に求めるのも有りでしょう。
しかしながら、慣れるに従って洞察の粒度も低く(細かく)なる筈です。そうなると口伝を含めた型の手順解説の中では描写されていない体験(課題・難しさ)にも出会うのではないでしょうか?そうなると必然的に現在の体験が最良の教科書になってくるのではないでしょうか?
技は当然、成功させる前提で稽古すべきですが、成功させる為に技巧的なコツや過去の成功体験を参照すると、進歩へのベクトルが働かない気がします。これは私自身への縛めにもしたい点ですが、部分的(技巧的)な記憶の参照は身体的でなく、既に観念的であると言えます。
頭で考えているが故に、対応が遅れ動きも部分的になり、結果として技を封じられるのではないでしょうか?また、動きが部分的である事は緊張の偏在(偏り)する力んだ動きであるとも言えます。では、記憶を参照しない動きとは如何なるモノか?その辺も踏まえて2024年の稽古テーマを熟考中です。
とは言え「人は記憶を頼りに事象を認識している」との説もあり、武術の技や型は、経験・記憶・記録の集大成とも言え、これらの課題の整理は、とても骨の折れるでしょう。既に従来の八光流の範疇を超えていますが、初代龍峰先生の著作には同じ匂いのロマンを感じるので、間違った方向でもない筈です。
以上、2023年12月30日のツイート連投のまとめです。そのまま、コピペしています。